五反田の風俗エステ店

五反田は、江戸時代に目黒川周辺の水田が一区画5反(約5,000平方メートル)だったことから「五たんだ」と呼ばれたのが地名の由来とされています。

大正時代に鉱泉が発見され、温泉旅館ができたことをきっかけに、五反田は次第に花街として発展。大正10年には二業地(料亭・置屋)として認定されました。
大正12年に関東大震災が発生すると、壊滅を免れた五反田は品川と渋谷の中間に位置する地の利もあってさらに栄え、大正14年には三業地(料亭・置屋+待合)に昇格。当時は芸者220人を抱え、芸者屋58軒、料理店25軒、待合45軒があったとされています。

その後、第二次世界大戦末期の五反田空襲によって一度は焼け野原になってしまいましたが、終戦後、昭和21年に五反田駅の南側に闇市が開かれたことで復興を遂げます。そして復興とともに待合が復活し、終戦から数年後には駅西口一帯に約30軒の待合が軒を連ねるようになりました。この待合がやがて現在のラブホテル街へと進化を遂げていくこととなります。
待合からラブホ街に変貌した五反田では、無店舗型風俗がいち早く発展しました。特に、SM専門デリヘルやM性感店など時代の先端を行くマニアックな風俗店がこぞってこの地に集まることとなったのです。

風俗エステのルーツは「洗体エステ」だった!

パンマのイメージ写真

風俗エステもそんな最先端風俗の一つです。では、風俗エステはどのようにして発展したのか、簡単に振り返っておきましょう。

風俗エステの起源は、戦後すぐにまでさかのぼります。
昭和24年、売春取締条例が発令されると、それまで赤線で働いていた娼婦の一部は女給などと身分を偽り、闇で売春をするようになりました。
その中には、マッサージ師としてホテルや旅館に出入りする女性もいました。こうしたサービスはパンマ(パンパンマッサージ)と呼ばれ、これが風俗系エステの始まりとされています。
時は流れ、ピンサロやヘルスの発展で日本の風俗産業が盛んになるにつれて、日本人エステ系風俗は一時期下火になりました。その代わりに台頭してきたのが韓国、台湾、中国などのアジアンエステ勢です。これらのアジアンエステは、本番などを行う違法店が大半でした。
中でも韓国エステは1995年頃から急激にシェアを伸ばしましたが、2002年のサッカー日韓ワールドカップ開催を機に摘発され、徐々にその姿を消していきました。

そんな折、五反田から遠く離れた地・沖縄でのちに風俗エステに革命を起こす「洗体エステ」なる画期的なサービスが誕生しました。
洗体エステとは、南国風味のパレオや水着姿の女の子が、モコモコの泡をたっぷり使って全身をトリートメントしてくれるサービスです。

「このマッサージに“ヌキ”が加わったら、さらに気持ちよくなるに違いない!」

エロに関しては世界一イノベーションが得意な「風俗先進国」の日本人がそんなアイデアを思いついたのは当然のなりゆきです。こうして全身マッサージ+手コキを主なサービスとする風俗エステが自然発生しました。

先鋭的な風俗タウン・五反田にも2010年頃には風俗エステが誕生。洗体サービスに加えて、鼠径部のリンパマッサージ睾丸マッサージといった回春マッサージを取り入れたマニアックなサービスは五反田風俗を愛するファンを熱狂させました。

現在ではこうした風俗エステはさらに進化し、前立腺マッサージによるドライオーガズム男の潮吹きを体験できるM性感が登場するなど多様化しています。また、風俗エステの枠に収まることなく、手コキ以外にフェラチオなどのオールヌード・オール生のハイブリッドサービスを取り入れる出張型ヘルス&エステ店も増えています。

このように、五反田でも風俗エステ・回春性感マッサージはさらなる進化を遂げ、人気を拡大しています。

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